「使徒の働き」講解説教(5)原稿/シリーズ 『ステパノの信仰の弁明!』2023.09.03
『モーセを指導者また解放者として遣わされる神!』―モーセへの冒涜罪に対するステパノの弁明―
【復 習】●前回のメッセージで、イスラエル民族の歴史は神への反逆の歴史であった、という事をお伝えしました!しかも、その反逆は霊的盲目から来るものですが、それは、イスラエルの建国の父である族長たちから既に始まっていたとう事をステパノは指摘していました!しかしその中で、族長の一人であるヨセフは、多くの点でイエス・キリストと共通していたという事をお伝えしました!
●前回のメッセージで、もう一つ大切な点がありました。それは、旧新約聖書の間で異なった記述が見られる場合に、聖書には矛盾や誤りがあると短絡的に判断してはならないという事でした!「聖書はすべて神の霊感によるもので」(2テモ3:16)あるがゆえに、聖書の無謬性や無誤性を前提にして、人の目には矛盾に思われる聖書箇所について、その理解に取り組むという態度が求められます!過ちを犯しがちな判断力をもっている人間自身が、神のお言葉を裁く資格はない事を認識する必要があります!聖書に関わるに当たって、人間が完全な情報や知識に欠けている者だという事を、わきまえねばならないという事を学びました!
【前 置】●今回は、『ステパノの信仰の弁明』というテーマに関する三回目のメッセージです。モーセへの冒涜罪で告訴されているステパノの21節にわたる弁明を通して、イスラエルの歴史に現された実に麗しい神の摂理の御業の数々がどのようなものであったのかという事について学びます!ステパノの長いメッセージに込められた意味深さを一つ一つ紐解きながら、その醍醐味を味わって行きましょう。そして、その中に輝く真理の一つ一つを掘り出して行きましょう。
●今回のメッセージの主題は『モーセを指導者また解放者として遣わされる神!』で、副題は「モーセへの冒涜罪に対するステパノの弁明」です。ステパノの弁明によって解き明かされる神の御心の一つ一つに、私たちの霊の目を向けて行きましょう。
【全体のアウトライン】
●序 論:聖書に見られる信仰の弁明/済
●本 論:ステパノの信仰の弁明!/今回&次回
[1]ステパノの優れた霊性!(6:8-15)/済
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)/今回(3回目)
1)神への冒涜罪に対する弁明(7:1-16)/済
2)モーセへの冒涜罪に対する弁明(7:17-37)/今回
3)律法への冒涜罪に対する弁明(7:38-43)/次回
4)神殿への冒涜罪に対する弁明(7:44-53)/次回
[3]ステパノ、最初の殉教者!(7:54-8:1a)
―1―
【今回のアウトライン】
●本 論:ステパノの信仰の弁明!
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)/3回目
2)モーセへの冒涜罪に対する弁明(7:17-37)
ア)エジプトの奴隷の身から同胞イスラエルを解放させたモーセを拒絶(7:17-35)
イ)不思議としるしを行い、救い主の到来を預言したモーセを拒絶(7:36-37)
【本 論】
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)
2)モーセへの冒涜罪に対する弁明(7:17-37)
●ステパノは、一番目の告訴内容である神を冒瀆したという訴えに対して適切に弁明し、今度は、二番目の告訴内容であるモーセを冒瀆したという訴えに対しても引き続き弁明して行きます。ステパノは自分が神を敬っていたように、モーセに対する敬意をも示して行きます!ステパノは再び、「無罪」を主張します!彼がイスラエルの歴史を踏まえて語る事によって、原告側に対し、効果的な弁明を進めて行きます!7章の最初の16節にわたるステパノの弁明の中で語られたイスラエルの歴史の範囲というのは、アブラハムの召しから12人の族長たち、その中でも特にヨセフ、そしてエジプトに留まり続けるイスラエル民族という期間でした。そして今回の17節から37節まで、続く次回の38節から43節までの二回にわたって、イスラエルの歴史の二番目の大きな期間である、モーセからバビロン捕囚までを取り上げます。
ア)エジプトの奴隷の身から同胞イスラエルを解放させたモーセを拒絶(7:17-35)
●それではまず、17節から35節を取り上げて一つ目のポイントを学ぶのですが、何と、18節分を一挙に解き明かします。エジプトの奴隷の身からイスラエルを解放させたモーセを退けた同胞イスラエルの民に焦点を当てましょう。17節の前半に、「約束の時」という言葉が記されています。それは、神が「アブラハム」に成就してくださる「約束」の「時」を指しています!7:5で既に学びましたように、その「約束」とは、「この地」すなわちカナンの約束の地を、「彼」すなわちアブラハと「その後の子孫に所有地として与える」というものでした!そして、その「約束の時が近づくにしたがい」、イスラエルの「民はエジプトで大いに数が増え」て行ったのです。イスラエルの「民」はエジプトにおける生活に満足しており、神がイスラエルの「民」に約束しておられた地には戻っていませんでした。そこで、神の「約束」が成就するという「時」が訪れたがゆえに、神は主権をもって、イスラエルをエジプトから移動させる一連の壮大な出来事を遂行されたのです!
●その時、18節に記されていますように、「ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに起こ(って)」いました。この言葉は、ステパノが出エジプト1:8から引用したものです!それは、ステパノが旧約聖書に精通していていたという事を物語っていました!イスラエルの人口増加に警戒していたエジプトの王ファラオは、ユダヤ民族がエジプトを侵略する他の民族と一緒になって攻め入るのではないかという恐をもっていました!それゆえ、ファラオは、エジプトの将来の存続を担うであろうイスラエルの子どもたちを虐げ始めたのです!
―2―
●19節に記されていますように、「王は」イスラエルの人々に対して「策略をめぐらし」た結果、彼らを奴隷化し、彼らに重労働を課す事にしました(出1:15-22)。「王は」イスラエルの人々を「苦しめ」、強制的に「幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました」。出エジプト1:22によりますと、ファラオは、「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込(んで)」殺害するようを命じ、「女の子はみな、生かしておかなければならない」と命じました!そのようにして、イスラエルの民を最終的には根絶やしにするというもくろみでした!
●しかしながら、神は、ご自分の民へ遣わす解放者を備えられました!20節の冒頭で、イスラエルにとって「このような」重大な「時」に、「モーセが生まれた」と記されています!モーセの生涯とその働きというものは、最高法院の議員たちにとっては余りにもよく知られていた事でした!それゆえ、ステパノは、その時代の流れを要約してまとめ、自分の主張を伝えるためにそれを用いました!自分がモーセを冒涜したという事で告訴されたという事をよく認識していたステパノは、敢えてモーセを立てて、20節の中盤で、「彼は神の目にかなった、かわいい子で」あったと表現しています!
●モーセは、その状況下の脅威から逃れる事はできませんでした。20節の最後の部分から21節の冒頭に掛けて記されていますように、「三か月の間、父の家で育てられ・・・た」後に、モーセもまた「捨てられ」ました。他の沢山の幼子たちのように、モーセもまた溺死させられるために、ナイル川へと「投げ込ま(れる)」運命にありました!(出1:22)。しかしながら、モーセの親は、我が子が死なないように防水を施した「かご」に入れ、そして「ナイル川の岸の葦の茂みの中に置(いた)」のです(出2:3)。21節の中盤に記されていますように、神の聖定によるご計画によって、「ファラオの娘が」モーセを見つけ、「拾い上げ、自分の子として育て」ました!(出2:1-6)
●モーセはファラオの孫として養子となり、22節が伝えていますように、「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました」。モーセは、優れていました。彼のもって生まれた指導者としての資質が、その当時の古代世界で最も総合的にたけていたエジプトの教育とつながりました!それによって、彼がこれから任務を遂行するに当たって、比類のない力を発揮して行くのです!
●モーセに対する神の召しは、23節の冒頭に記されていますように、「モーセが四十歳になったとき」に与えられました!その時、23節の中盤から後半に掛けて記されていますように、「自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが」、モーセの「心に起こりました」!ファラオのエジプトの家庭で育ちましたが、モーセは、自分の同胞であるユダヤ民族を決して忘れる事がなかったのです!なぜなら、それは間違いなく、その母親が、モーセに教え込んだからに他なりません!と言うのも、モーセの母親が「ナイル川の岸の葦の茂みの中に置い(て)」手放した我が子に対して(出2:3)、神が摂理を働かせ、彼女をモーセの乳母としてお用いになられたのです!ナイル川に「水浴びを」するために降りて来た「ファラオの娘」(2:5)がそのかごを見つけるのですが、その時の模様を、出エジプト2:7-10の前半は、次のように伝えています。
2:7 その子の姉(モーセの姉/2:4)はファラオの娘に言った。
―3―
「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」2:8 ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。2:9 ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。 2:10 その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。
そのように、モーセは「大きくな(る)」まで実の母親の元で育まれ、たっぷりと愛情を注いでもらい、ヘブル人の血が自分には流れている事が、その脳裏に刻まれたものと推測できます!しかもエジプトの王家からヘブル人である赤ちゃんモーセへ命の保証が与えられ、母親は乳母としての賃金までも支給されました!神の摂理のなせる御業です!
●そのような背景をもったモーセが成人して後40歳になった時、追い詰められていた自分の同胞を助ける決心をします!24節で、自分の「同胞の一人が虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち殺して、ひどい目にあっていた人のために仕返しをしました」。続く25節に記されていますように、虐待しているエジプト人を自分が殺した事によって、「モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを」イスラエルの「皆が理解してくれるものと思っていました」。虐待されていた自分の同胞の元へ、単に友として訪れるのが、モーセが意図としていた事ではなくて、その同胞を圧制者たちから解放するのが彼の目標でした!しかしながら、モーセの同胞であるイスラエルの人々は、25節の最後の部分に記されていますように、モーセの意図を「理解し(なかった)」のです。
●その「翌日」、26節ですが、「モーセは同胞たちが争っているところに現れ、和解させようとして」、次のように「言いました。「あなたがたは兄弟だ。どうして互いに傷つけ合うのか」、と。モーセは自分自身を、イスラエルの国に解放をもたらす者としてだけでなく、その民の中にあって平和を作る者として、自分自身を捉えていました。しかしながら、彼の努力は感謝されず、退けられてしまいました!続く27節で、「隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけながら」、皮肉っぽく、次のように「言いました」。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか」、と(出2:14)。そして続く28節で、その言葉に付け加えて不気味な口調で、「昨日エジプト人を殺したように、私も殺すつもりか」と言いました。
●自分がエジプト人を殺した事が広く知られるようになった事に気づいたモーセは、29節で、エジプトから「逃げ」、何とエジプトからスエズ湾を隔てたシナイ半島を横断し、更にアカバ湾を隔てた「ミディアンの地で寄留者となり、そこで男の子を二人もうけました」(出2:15,22)。ファラオは、モーセをエジプトへの反乱首謀者と見なしたに違いありません。ファラオは「モーセを殺そうと探し」ましたが、それは成功しませんでした(出2:15)。イスラエルの人々が愚かにもモーセを退けた結果、エジプトにおける奴隷生活が、40年も長引くようになりました!それと同じように、イスラエルの人々は、救い主イエス・キリストの解放を退けたのです!そしてその結果、祝福を失う期間が、何と、キリストの再臨の時まで長引く事になりました!
―4―
●モーセは、30節に記されていますように、ミディアン人の間で、「四十年」にわたって生活しました。その終わりの年に、「シナイ山の荒野において、柴の茂みの燃える炎の中で、御使いがモーセに現れました」(出3:2)。「炎」は、神の臨在を現していました!31節と32節の前半で、「その光景を見たモーセは驚き、それをよく見ようとして近寄ったところ、主の御声が聞こえました。『わたしは、あなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』」、と!(出3:6)。「アブラハム、イサク、ヤコブの神である」と言及しておられるように、アブラハムをはじめ、先祖にお与えになっておられた契約について、神は、ここで再び繰り返し語られ始めたのです!
●今日、多くの者が根拠なく、軽々しく神からの幻を見たと主張するのですが、モーセの場合は全く違いました!「モーセは震え上がり、あえて見ようとは」しなかったくらいです!神の臨在というものは、馴れ馴れしさや軽々しさを引き起こすのではないのです!そうではなく、畏敬の念に満ちた恐れを引き起こすものです!それゆえ、主は33節で、モーセ「にこう言われました。『あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」、と!(出3:5)幕屋や神殿の至聖所のように、「柴の茂みの燃える炎の」周辺は、イスラエルの聖なるお方の臨在によって聖い場所とされていました!
●モーセの荒野における40年の後で、イスラエルの民を約束の地へ導く時が来ました!34節で、主はモーセに対して、次のように語り掛けられました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見た。また彼らのうめきを聞いた。だから、彼らを救い出すために下って来たのだ。今、行け。わたしは、あなたをエジプトに遣わす」、と!(出3:7)イスラエルの民は神に対して不忠実な態度を継続して取り続けましたが、神は、ご自分が誓われた契約に対して変わる事なく、それを忠実に果たされたお方でした!
●ステパノは、ここで、モーセに関する自分の弁明のポイントに達します!35節で、ステパノは次のように告げます。「『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだ」まさに「このモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです」、と!これが、イスラエルの歴史に見られる変わらないパターンです!イスラエルの民は、霊的傲慢と霊的無知とによって、神が送り続けられた解放者たちを退けて来たのです!ステパノが指摘したように、イスラエルの人々はヨセフとモーセの双方を退けました!これが、神がイスラエルの人々を解放するために送られた神の器たちに対する、彼らの典型的な反応なのです!イエス様はマタイ21:33-46で、ぶどう園で働く農夫たちへ自分のしもべたちや、最後には自分の息子までをも送ったたとえ話によって、イスラエルの人々のその悪しき態度を露わにしていますが、全くその通りなのです!
イ)不思議としるしを行い、救い主の到来を預言したモーセを拒絶(7:36-37)
●ここから最後の二つ目のポイントで、36節と37節を取り上げます。不思議としるしを行い、救い主の到来を預言したモーセを拒絶した同胞のイスラエルの民に焦点を当てます。モーセは自分の使命を成し遂げ、そして36節に記されていますように、「人々を導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年の間荒野で、不思議としるしを行いました」!
―5―
「エジプトの地で」、次に「紅海」の海が分かれる時に、そして「また四十年の間荒野で」イスラエルの人々が目撃した「不思議としるし」にもかかわらず、彼らの神への継続した反逆が、更に彼ら自身を遅らせる事となりました!これらの反逆のゆえに、イスラエルの民は、約束の地以外を「四十年」余りにわたって歩き回り続けたのです!
●モーセに関するステパノの見解を見ますと、彼がモーセを最大限敬っていた事は明らかです!ステパノがモーセを冒涜していたという告訴内容は、ステパノが神を冒涜したとして告訴された内容と同様に全くの偽りでした!そして、ステパノを告訴していた同胞のユダヤ人たちと訴えられていたステパノとの関係に、大逆転がもたらされます!イスラエルの人々こそが、実に、モーセを退けた罪を犯している事を示すのです!
●ステパノはイスラエルの人々に対して、モーセは、救い主が来られる事を予知していて、最後の37節で、「イスラエルの子らにこう」預言して「言(い)」ました。「神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる」、と!この聖句は申命記18:15から引用されたもので、ステパノと同世代の全ての人にはよく知られていた御言葉でした!ヨハネ6:14で、群衆が一時的ではあるにせよ、イエス様について、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました。群衆は、イエス様こそが、モーセが約束したお方で、そしてこの世に来られた事に賛同していましたが、これらステパノを告訴しているユダヤ人たちはそれに同意する事はありませんでした!そういう訳で、彼らは自分たちの先祖たちが行ったように、彼ら自身もまた、神が送られた解放者である救い主を退けたのです!この拒絶は、他に退けられた神の器たちを一緒に合わせたものよりも、何倍も深刻なものでした!
●ステパノが示した歴史的事実に基づいて語った真理を、最高法院が進んで受け止めてよく考える事ができたのなら、次のような重要な点に気づいた事でしょう。彼らは自分たちの国の歴史とイエス様に対する自分たちの態度との間には、共通した点があったのだという事を、見落とさなかったに違いありません!また、イエス様とモーセとの間にも共通点があったのだという事を、見落とさなかったに違いありません!
●モーセは、ファラオの宮殿から去る事によってへりくだりました!同じように、イエス様は、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず」、人になる事によってへりくだられました!(ピリ2:7-8)モーセは最初に退けられ、同じように、イエス様も退けられました!(ヨハ1:11)モーセは羊飼いでしたが、同じように、イエス様も良い羊飼いでした!(ヨハ10:11、14)モーセは、エジプトにいる自分の同胞たちを、その奴隷の境遇から贖い出しました。同じように、イエス様はご自身を信じる人々を、罪の奴隷から贖い出しました!モーセの歴史は、イエス・キリストの歴史をあらかじめ示していたのです!
【まとめ&適用】
●一つ目のポイントを振り返り、そこから私たちへの問い掛けに耳を傾けましょう。ステパノがモーセを冒涜したという告訴に対して、彼は「約束の時」という言葉を用いました。
―6―
すなわち、神がモーセを用いて、イスラエルの民がエジプトを脱出する「約束の時が近づ(いた)」事について語りました。その時、ステパノの答弁が明らかにしていたのは、彼が、いかに旧約聖書に精通していたかという事です!そこでいかがでしょうか、あなたは日々、神の御言葉である聖書に親しんでいますか?「みことばは」あなたの「足のともしび」、またあなたの「道の光」となっていますか?(詩119:105)
●イスラエルの民がエジプトを脱出して、神が約束されたカナンの地に行くのは、神がアブラハムとその子孫に誓われた契約から来るものでした!イスラエルの民は神に対して不忠実な態度を取り続けましたが、神は、ご自分が誓われた契約を忠実に果たされました!神のイスラエルに対する契約とは、たとえイスラエルの民がその契約を破っても、神はその契約を破棄されずに守られ、ご自分の御旨を実現されるお方です!この点がまさに、人間同士の契約と神と人との契約の決定的な違いです!人間同士の契約であれば、一方が違反すると刑罰が下され、その契約を続けるかどうかが話し合われます。しかし、神の場合は、契約を破棄される事はないのです!神は契約違反者を戒められますが、その契約を破棄されずに成就してくださるお方です!神は絶対的であり、また恵みとあわれみと赦しに富んでおられるお方です!そうして神は、イスラエルの民を導いて行かれましたし、今も忍耐をもって対応しておられます!そこでいかがでしょうか、あなたは人間同士の契約と神と人間との契約の決定的な違いを認識できましたか?あなたが信じている神は、ステパノが理解していた神と同じですか?イスラエルの不忠実な態度にもかかわらず、ご自身の契約に基づく約束を忠実に果たされ、恵み深い対応をなされる聖書の神について、あなたはそのお方にどう応答されますか?
●「ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに起こ(った)」事から始まったユダヤ民族の奴隷化という苦しみが、カナンの「約束の地」へ向けて出発するという神の契約実現の引き金となりました!神はご自分の民の苦しみを、よく把握しておられました!それゆえ、神はその解放者モーセの誕生を導き、訓練の時を与えられ、そしてエジプトで苦しむ民の元へ送り返されるために、「燃える炎の中」から、聖なる契約の神がみ声を発せられました!いかがでしょうか、神はあなたの苦しみをよく把握しておられ、その苦しみからの解放のために、摂理を働かせて準備を進めておられるお方だという事を聞いて、あなたは率直に、神にどう応答されますか?今、実際に試練の中で苦しんでおられる方はいませんか?神が、あなたの苦しみをよくご存じで、その脱出の道もよくご存知で、そこに向ってあなたを導いておられる事に対して、あなたは神へどう応答しますか?聖書の約束を固く守られる神は聖なるお方で、試練を通してあなたを練られ、ご自分の聖さにあずからせ、あなたをご自分の「約束の地」へ至らせるお方です!あなたには、この聖い神の御手の働きが見えますか?
●二つ目のポイントも振り返り、そこから私たちへの問い掛けに耳を傾けましょう。イスラエルの民は、「エジプトの地で、紅海で、また四十年の間荒野で」モーセを通してなされた神の「不思議としるしを」目の当たりにしましたが、彼らの神への反逆は続きました!その結果、民は、約束の地以外を「四十年」余りにわたって歩き回り続ける事を余儀なくされました!
―7―
いかがでしょうか、神の「不思議としるし」が、必ずしも人々を神への忠実な信仰者へと導く者ではない事を物語っていました!それでは誰が、神への忠実な信仰者となれるのでしょうか?それは、自らの罪深さを神の聖霊によって深く諭され、そして自らへりくだって神へ自分の罪と永遠の死からの救い求めて救われた人です!いかがでしょうか、あなたは、自分の罪深さを神によって教えられ、そしてへりくだって罪の赦しと永遠の死からの救いを求めて救われた者ですか?逆に、真に救われた者に対して現される神の「不思議としるし」は、その人の信仰にどういう影響を与える事になりますか?
●弁明を通して、ステパノがモーセを最大限に敬っていた事が明らかにされました!それによって、彼に対する同胞のユダヤ人たちの訴えが全くの偽りであった事が証明され、形成が逆転して行きました!モーセを退ける罪を犯していたのはステパノではなく、実に、ステパノの同胞のユダヤ人たちであったのです!ここで、聖書は、あなたに何を教えていますか?真の信仰者と上辺を繕う偽善の信仰者それぞれに対して、神は、何を言わんとされていますか?
●モーセは、救い主が来られる事を予知しており、その事を民に対して預言しました!しかしいかがでしょうか、いざ救い主イエス・キリストが罪と死からの解放者として到来した時に、イスラエルの民は救い主に対してどういう態度を取りましたか?人々は、十字架につけ救い主を殺害しました!ステパノが示した歴史的事実に基づいて語った真理を、最高法院が進んで受け止めてよく考える事ができたのなら、彼らは自分たちの国の歴史とイエス様に対する自分たちの態度との間には、拒絶という共通した点があったという事を見出したに違いありません!また、イエス様とモーセとの間にも共通点があったのだという事を見落とさなかったに違いありません!そこでいかがでしょうか、救い主イエス・キリストに対するあなたの態度はどういうものですか?自分には関係のない方だと退けるのですか?それとも、これまでそのお方を無視して退けていた事を認め、悔い改め、そしてそのお方を救い主として受け入れるのですか?
●モーセがファラオの宮殿から去る事によってへりくだったように、イエス様は、「神としてのあり方を捨てられないとは考えず」、人になられる事によってへりくだられました!モーセは最初に退けられたように、イエス様も退けられました!モーセは羊飼いであったように、イエス様は良い羊飼いであられました!モーセは、エジプトにいる自分の同胞たちを、その奴隷の境遇から贖い出したように、イエス様はご自身を信じる者を、罪の奴隷から贖い出しました!モーセの歴史は、イエス・キリストの歴史をあらかじめ示していました!そこでいかがでしょうか、あなたはモーセと救い主イエス・キリストとの間に共通点を見出す事ができますか?モーセは救い主の到来を民に指し示しましたが、いかがでしょうか、あなたもまた救い主イエス・キリストが既に到来され、救いの御業を十字架の死と復活で成し遂げられた事を指し示す者ですか? それでは、お祈りしましょう。
【結 論】
■「7:35 『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は・・・指導者また解放者として遣わされたのです。・・・このモーセが、イスラエルの子らにこう言ったのです。『神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる』」(使徒7:35、37)。
■「【主】はまた、モーセに言われた。『わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ』」(出エジプト32:9)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き18-24』(ムーディー出版、2014) (John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 18-24, The Moody Bible Institute of Chicago, 2014, pp. 207-211.)