「使徒の働き」講解説教(4)シリーズ 『ステパノの信仰の弁明!』2023.08.27
『キリストへの冒涜に対するステパノの弁明!』―同じ出来事が旧新約聖書で異なって記述されている時、あなたはどう対応しますか―
【復 習】●「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい」(1ペテ3:15)、と神は使徒ペテロを通して私たちクリスチャンに命じておられます!神、モーセ、律法、神殿に対する冒瀆罪によって不当に告訴されたステパノは、最高法院の議員たちの前で弁明を始めました。その答弁の内容は自分を守るために無罪判決を勝ち取るというものではなく、告発者たちに対するクリスチャンのメッセージであり、まさに真理の宣言でした!下記のアウトラインが示していますように、法廷では大祭司の尋問と共にステパノの答弁が始まり(7:1-2)、イスラエルの共通先祖アブラハムの信仰を取り上げる事によって(7:3-8)、聴衆の注意と関心を引き寄せ、そしてそれを保つ事によって、51節から53節に掛けたクライマックスに備えました。
【前 置】●『ステパノの信仰の弁明』というテーマの二回目のメッセージは、神への冒涜罪に対するステパノの二回目の弁明を取り上げます!イスラエルの族長たちとステパノを告訴する人々との共通点を確認しながら(7:9-16)、御霊に満たされたステパノの弁明の醍醐味を味わって行く事にします!
●副題に記されていますように、同じ出来事について、旧新約聖書の記述に違いが生じる事があります。聖書の記述に矛盾している点があると感じる時、信仰者はどう対応したらいいのでしょうか?聖書には矛盾があり、誤りがあるのでしょうか・・・?
●本日のメッセージの主題は『キリストへの冒涜に対するステパノの弁明!』で、副題は「同じ出来事が旧新約聖書で異なって記述されている時、あなたはどう対応しますか」です。ステパノの弁明によって解き明かされる神の御旨に、私たちの心を向けて行きましょう。
【全体のアウトライン】
●序 論:聖書に見られる信仰の弁明/済
●本 論:ステパノの信仰の弁明!/今回&次回以降
[1]ステパノの優れた霊性!(6:8-15)/済
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)/今回(2回目)
1)神への冒涜罪に対する弁明(7:1-16)/今回(2回目)
2)モーセへの冒涜罪に対する弁明(7:17-37)/次回
3)律法への冒涜罪に対する弁明(7:38-43)/次々回
4)神殿への冒涜罪に対する弁明(7:44-53)
―1―
[3]ステパノ、最初の殉教者!(7:54-8:1a)
【今回のアウトライン】
●本 論:ステパノの信仰の弁明!
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)
1)神への冒涜罪に対する弁明(7:1-16)/2回目
ア)大祭司の尋問とステパノの答弁の始まり(7:1-2)/済(1回目)
イ)イスラエルの共通先祖アブラハムの信仰(7:3-8)/済(1回目)
ウ)イスラエルの12族長とステパノを告訴する人々との共通点(7:9-16)
a)12族長たちの霊的盲目は、イエス様の初臨時のユダヤ国民と共通している(使7:9-10)
b)ヨセフの生涯は、多くの点で、イエス様と共通している(使7:11-13)
c)ヨセフがエジプトへ「呼び寄せ」た「親族全員」の人数について・・・?(使7:14)
d)ヤコブが埋葬された場所と誰がその埋葬場所を買ったのか、
その難題の聖書箇所に取り組む!(使7:15-16)
e)聖書を理解するに当たって、人が心得ておくべき大切な態度とは何か!?(2テモテ3:16)
【本 論】
[2]ステパノの信仰の弁明!(7:1-53)
1)神への冒涜罪に対する弁明(7:1-16)/2回目
ウ)イスラエルの12族長とステパノを告訴する人々との共通点(7:9-16)
a)12族長たちの霊的盲目は、イエス様の初臨時のユダヤ国民と共通している(使7:9-10)
●前回のメッセージで既に語りましたが、ステパノは、自分の弁明の最後の部分、51節から53節で、同胞の「ギリシャ語を使うユダヤ人たち」を猛烈に罪に定めるのですが、そのクライマックスに向って、12族長たちを皮切りに、ステパノは下地作りを始めます!9節の冒頭で、ステパノは、「族長たち」という言葉を発しています。イスラエル民族はアブラハムから始まり、その一人息子イサクに受け継がれ、イサクにエサウとヤコブの双子の兄弟が生まれ、ヤコブがイサクの後を受け、ユダヤ人の血を受け継ぎました。そのヤコブに12名の子どもたちが生まれ、12名の子どもがスラエルの12部族の元となる族長たちとなりました。
●イスラエルの歴史における最も尊敬されている人々の中に、この12名の「族長たち」がいました。その一人、ヨセフには、母親が違う、腹違いの男性兄弟が十人おり、ヨセフは下から二番目でした。その兄たちが、9節の中盤で、17歳になっていた「ヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとば(す)」という罪深い行為に出ました。その理由は、父親のヤコブが「年寄り子」である「ヨセフ」を「息子たちのだれよりも・・・愛して」おり(創37:3-4)、他の十名の息子たちから妬みを買っていたからでした。「悪い獣」に「食い殺(され)」たという事にしてヨセフをエジプトの証人へ「売り飛ばし」、父親ヤコブを大いに悲しませました(創37:31-35)。そうする事によって、ヨセフの兄弟たちは、神が特別な祝福のために取って置かれたご自分の器を、妬みそして恨んで退けたのでした!(創37:5/1歴5:1)
―2―
●ヨセフは兄弟たちから妬まれ、恨まれ、そして退けられたにもかかわらず、9節の最後の部分から10節に掛けて記されていますように、「・・・神は彼とともにおられ、あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王ファラオの前で恵みと知恵を与えられたので、ファラオは彼をエジプトと王の全家を治める高官に任じ」ました!(Wow)そこで、ステパノは、この族長たちが神と神の目的に敵対していた者たちであったという事を明らかに示しました!彼らはヨセフを「売りとばしました」が、神はヨセフを救い出しました!ですので、ユダヤ国民の神への反逆というものは、実に、この族長たち自身から始まっていた事を、イスラエルの歴史を通してステパノは示して行ったのです!この「ギリシャ語を使うユダヤ人たち」は、建国の父である族長たちが行っていた事が罪に定められたように、彼ら自身もまた、ステパノが行っていた事に対して偽りの告訴をし、族長たちと変わらない悪しき業に手を染めていました!
b)ヨセフの生涯は、多くの点で、イエス様と共通している(使7:11-13)
●ステパノはメッセージの締めくくりの部分の52節で、「正しい方」という言葉を使って初めてイエス・キリストを表しますが、それまでの間、イスラエルの歴史まとめて語りながら、キリストがどのように表されていったのかを間接的に伝えて行きます!その一番目に、ステパノはヨセフの生涯を取り上げますが、多くの点で、イエス・キリストと共通している事が分かります!まず、言うまでもなく、双方ともユダヤ人です。ヨセフのように、イエス様もまた妬みによって引き渡されました!(使7:9/参 マコ15:10)ヨセフがエジプトの王「ファラオの廷臣で侍従長のポティファル」(創39:1)の妻の偽証によって投獄されたように、イエス様は人々の偽証によって死に定められました!神はヨセフを牢獄から解放されそして王に次ぐ高官へと高められたように、神はイエス様を死の牢獄から解放されそして御父の右の座へと高められました!ヨセフが自分の罪深い兄弟たちを肉体の死から解放したように、イエス様はご自分を信じる兄弟姉妹を霊的な死から解放してくださいました!
●自分の兄弟たちによってヨセフが拒絶されて後の11節の事を、ステパノはその聴衆に対して、次のように思い出させました。「エジプトとカナンの全地に飢饉が起こり、大きな苦難が襲って来たので、私たちの父祖たちは食べ物を手に入れることができなくなりました」、と!同じように、イスラエルの人々が救い主イエス様を退けた事が、彼らを霊的飢饉の中へと追いやりました! ローマ11:26が告げていますように、「イスラエル」が「みな救われる」まで、すなわち再臨の時にイスラエルの人々が「みな救われる」まで、このイスラエルに対する霊的飢饉は続いて行きます!
●「飢饉」がひどかったため、12節に記されていますように、「ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まず私たちの父祖たち」すなわち族長たちを「遣わしました」。しかし、「父祖たち」が「二度目の」エジプト訪問の時までは、「ヨセフは兄弟たちに」すなわち族長たちに、「自分のことを打ち明け(る)」事はありませんでした。それと同じように、イエス・キリストの再臨が起こる時までは、イスラエルの国民全体がイエス・キリストが誰なのかが明らかにされる事はありません!(参/ゼカ12:10-13:1、14)
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c)ヨセフがエジプトへ「呼び寄せ」た「親族全員」の人数について・・・?(使7:14)
●さて、ここから後半ですが、聖書の理解の仕方という点に焦点を当てます。ヨセフが自分自身を兄弟たちに現して後に、14節で、「ヨセフは人を遣わして、自分の父ヤコブと七十五人の親族全員を呼び寄せました」。ところが一方、創世記46:26-27、出エジプト1:5、そして申命記10:22では、ヤコブ一族「七十人」がエジプトにくだったと伝えています。旧約聖書の「七十人」という記述とステパノが語った「七十五人」との間には五人の開きがあるのですが、私たちは、その違いどう受け止めたらいいのでしょうか?
●ステパノがより大きな「七十五人」という数を用いたのは、明らかに、エジプトで生まれたヨセフの全家族を含めた、ヤコブ一族の総数を表していたからでした!すなわち、その数字の差は、数え方の違いから来るものでした!聖書難問百科事典の中で、グリーソン・アーチャーという方が次のように解説しています。ちなみに先月、翻訳物ですが、「聖書難問注解 旧約編」という書籍を書店へ注文しました。220の難問へ答えているそうです。やがて、教会図書へ加えられますが、そういう解説書も有益です。時機に、新約編も出版されると思います。グリーソン・アーチャーに戻りますが、彼の解説に耳を傾けましょう。
・・・・ヤコブ自身の息子たちは12人、ヤコブの孫たちは52人、エジプトへ移住の時までは、既に4人のひ孫がカナンの地で生まれていました。その合計は66人となります。(ヨセフの子の)マナセとエフライムはエジプトで生まれています。これまでの合計で68人です。ヤコブとその妻を合わせて合計70人となります。ところで、ステパノは、エジプトで首相になったヨセフの7人の孫を加えています。そしてまた、ステパノは、総人数にヤコブとその妻を含めていません。
・これは、ステパノが、「七十五人」という人数を正しく伝えているという事を物語っています。そう訳ですので、・・・創世記46:27、出エジプト1:5そして申命記10:22は、合計70人で正しいのです。すなわち、双方共に正しいのです。ヨセフの孫たちを含めるか含めないかにかかっているのです。
d)ヤコブが埋葬された場所と誰がその埋葬場所を買ったのか、
その難題の聖書箇所に取り組む!(使7:15-16)
●15節に進みましょう。「ヤコブ」が「エジプトに下(って)」後、「ヤコブ」は全ての「父祖たち」すなわち12人の族長たちと共に、その国で「死にました」。そして16節で、ステパノは、「ヤコブ」と「父祖たち」の死後、「彼らは」約束の地カナンの「シェケムに運ばれ、かつてアブラハムがいくらかの銀でシェケムのハモルの子らから買っておいた墓に、葬られました」、と伝えています。
●この16節は、実に二つの難問を提示しています!一番目に、「ヤコブ」が「シェケム」に葬られたのではないという事を見極める必要があります!創世記23:16-20や50:13が伝えていますように、「ヤコブ」は、かつてエフロンという人が所有していた、ヘブロンのマムレの東のマクペラにある洞窟と畑地を、アブラハムが買い取って墓地にした所に葬られました。その墓には、アブラハムをはじめ、サラ、イサク、リベカ、レアが葬られています。16節冒頭の「彼ら」というのは、「父祖たち」すなわちヨセフとその兄弟たちのみに限られて記されていますので、その枠に「ヤコブ」は含まれておりません!ですので、「ヤコブ」は「シェケム」には葬られてはいません。 ―4―
加えて、ヨシュア記24:32の前半には、エジプトにいたヨセフは、「シェケム」の一画に埋葬された事が記されています!ステパノはここで、私たちに対して、ヤコブの他の11人の息子たちもまた、ヨセフと同じように「シェケム」に埋葬された事を告げています。すなわち、12人の族長たちは、皆「シェケム」に埋葬されたのです。
●二番目に、更なる難題が、ステパノの発言の中に横たわっています!それは、「アブラハムがいくらかの銀でシェケムのハモルの子らから買っておいた墓」というくだりです。ヨシュア記24:32の後半によりますと、それはアブラハムではなくて、ヤコブが「シェケム」の一画を買ったと伝えています!私たち読者は、この二つの記述の違いについてどう理解したらいいのでしょうか?聖書の記述には矛盾があるのでしょうか?その答えを探る事にしましょう!
●多くの説明がなされる中で、次の二つの理由が最も的確な答えを提供しています。その一番目に、アブラハムが、元々、「シェケム」の「ハモル」が属している人々や部族「の子らから買っておいた」という事は十分あり得る事です。アブラハムがカナンの地に初めて足を踏み入れた時、「シェケム」に祭壇を築いたという事が、創世記12:6-7に記されています。その祭壇を築いた土地の一画を購入したという可能性はかなり高いものであると考えられます。しかしながら、アブラハムがそこに定住する事はありませんでしたので、長い時が流れる内に、その一画が、その地域を占める「ハモルの」人々に戻され、それゆえヤコブがそこを買い戻す必要があったという事なのです!
●二番目に可能な説明は、次のようなものです。ステパノは、アブラハムが「マクペラ」の地の一画を購入したという記述と、ヤコブが「シェケム」の地の一画を買収したという記述を、一つにまとめてしまったのであろうという事が考えられます。それは丁度、前回のメッセージで、二節の「アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいた」という御言葉を解説した場合と似ています。アブラハムに対する二回にわたる神の召しを、一つにまとめて説明しているのに似ていました。
e)聖書を理解するに当たって、人が心得ておくべき大切な態度とは何か!?(2テモテ3:16)
●人間の限られた知識に基づいて、ステパノと使徒の働きの著者であるルカのいずれかに誤りがあると非難するのは、余りにも軽率な反応です!(Right!)ある人が旧約聖書のみで考え、その上で、ステパノがそのように明らかな歴史的間違いを犯したに違いないと主張するのは、余りにも軽はずみな批判です!また、ルカのように、細心の注意を払い、聖霊によって霊感された歴史家が、誤ってステパノのメッセージを記録してしまったというのもあり得ない事です!
●ステパノあるいはルカのいずれかに誤りがあると訴えるのは、聖書の霊感という教理に反対する深刻な問題を提起する事になります!そう訴える事は、真理の御霊が過ちを霊感するという事を認める事であり、また聖書の全てが御霊によって霊感されて誤りのないものとなっているという事を否定する事になるからです!(I see)真理の御霊が過ちを霊感するというのは、聖霊なる神への冒涜です!また、霊感を否定するというのは、「聖書はすべて神の霊感によるもの」という2テモテ3:16の御言葉に反するものです!
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もし聖書の全てが霊感されていないのなら、何が霊感されていて、また何が霊感されていないのかを誰が決めるのでしょうか?過ちを犯しがちな判断力をもっている人間自身が、神のお言葉を裁く資格はありません!そういう訳で、ステパノやルカがどうのこうのという前に、問題はひとえに、私たち人間の完全な情報や知識の欠如にあるのです!
●ステパノは、自分が神を冒瀆したという告発に対して、自分自身を弁護して行きました!ステパノは、アブラハムと父祖たちを通して、神の偉大な契約の働きについてはっきりと主張して行ったのです!
【まとめ】
●一つ目のポイントです。イスラエルの歴史における最も尊敬されている人々の中に、ヤコブの息子たち、いわば「族長たち」と呼ばれる人々がいましたが、彼らは妬みから、神が特別な祝福のために取って置かれた神の器であったヨセフを退けてエジプトへ売り渡しました!この族長たちは神と神の目的に敵対していた霊的盲目者であり、それはまさに、イエス様の来られた時の宗教指導者たちやユダヤ国民の霊的盲目状態と共通していました!「ギリシャ語を使うユダヤ人たち」は、建国の父である族長たちが行っていた事が罪に定められたように、彼ら自身もまた、ステパノが行っていた事に対抗して偽りの告訴をし、族長たちと何ら変わらない悪しき業に手を染めていました!
●二つ目のポイントです。ヨセフの生涯は、多くの点で、イエス様と共通していました!ヨセフのように、イエス様もまた妬みによって引き渡されました!ヨセフがエジプトの王「ファラオの廷臣で侍従長のポティファル」(創39:1)の妻の偽証によって投獄されたように、イエス様は人々の偽証によって死に定められました!神はヨセフを牢獄から解放されそして王に次ぐ高官へと高められましたように、神はイエス様を死の牢獄から解放されそして御父の右の座へと高められました!ヨセフが自分の罪深い兄弟たちを肉体の死から解放したように、イエス様はご自分を信じる兄弟姉妹を霊的な死から解放してくださいました!ヨセフが兄弟たちによって拒絶されて後、飢饉が起こって大きな苦難が襲ったように、イスラエルの人々がイエス様を退けた後、彼らは霊的飢饉の中へと追いやられました!「イスラエル」が「みな救われる」まで、すなわち再臨の時にイスラエルの人々が「みな救われる」まで、このイスラエルに対する霊的飢饉は今に至るまで続いています!「父祖たち」すなわち自分の兄弟たちが「二度目の」エジプト訪問の時まで、「ヨセフ」が「自分のことを打ち明け(る)」事がなかったように、イエス・キリストの再臨が起こる時まで、イスラエルの国民全体がイエス・キリストが誰なのかが明らかになる事はありません!
●三つ目のポイントです。ヨセフがエジプトへ「呼び寄せ」た「親族全員」の人数が、ステパノが語った「七十五人」という数と、旧約聖書が伝えている「七十人」という数とには違いが生じていました!結論から言いますと、ヘブル語の旧約聖書で表されている人数と、ステパノが新約聖書で用いた人数は違えども、双方とも正しい数を伝えているものであり、旧新約聖書に矛盾がないという事が確認しました!
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●四つ目のポイントです。ヤコブが埋葬された場所と誰がその埋葬場所を買い入れたのかという点で、新約聖書と旧約聖書の記述に相違が見られるように思われましたので、二つの難題が浮上して来ました!第一の難題は、ステパノが、「彼らはシェケムに運ばれ・・・葬られました」と語った点でした。その「彼ら」というのは12人の族長たちに限定されており、彼らの父親である「ヤコブ」が入っていないという事を見極める事は大切でした!創世記23:16-20や50:13がそれを裏付けており、「ヤコブ」は、アブラハムが買い取っていたエフロンの所有地、ヘブロンのマムレの東のマクペラにある洞窟と畑地の一画に葬られました!
●第二の難題は、「アブラハムがいくらかの銀でシェケムのハモルの子らから買っておいた墓」というステパノの発言に見られました。ヨシュア24:32の後半によりますと、それはアブラハムではなくて、ヤコブが「シェケム」の一画を買ったと伝えています!この二つの相反する記述をどう理解すべきなのかは大切です!一番目の可能な説明として、アブラハムがカナンの地に初めて足を踏み入れ、最初に祭壇を築いて神を礼拝したのは、実は「シェケム」でした。ですので、その土地の一画を購入した可能性は十分にありました!しかし、そこに定住しなかったため、長い時の流れの中で、その土地が現地の人々に戻され、それをヤコブが買い戻したという事でした!そこで、その二番目の可能な説明として、ステパノは、アブラハムが「マクペラ」の地の一画を購入したという記述と、ヤコブが「シェケム」の地の一画を買い取ったという記述を、ひとまとめにして語ったのであろうと考えられます。
●五つ目のポイントです。ある一つの事で、旧新約聖書の間で異なった記述が見られる場合、聖書の記述には矛盾があり、誤りがあると非難する人々がいます!しかし、「聖書はすべて神の霊感によるもので」(2テモ3:16)、聖書が誤りのない神の御言葉であるために、聖霊なる神の守りの中に書かれた事を私たちは忘れてはなりません!聖書が誤りのない神のお言葉、すなわち聖書の無謬性あるいは無誤性を前提にして、人の目には矛盾に思われる聖書箇所について、その理解に取り組む必要があります!過ちを犯しがちな判断力をもっている人間自身が、神のお言葉を裁く資格はないという事を認識する必要があります!聖書に関わるに当たって、人間が完全な情報や知識の欠如にあるのだという事をわきまえなければならないという事も合わせて教えられました!
●そして最後に、ステパノは、アブラハムと父祖たちを通して、神の契約の働きがいかに偉大なものであるのか、そして誤りなきものであるのかについてはっきりと主張し、弁明を続けて行くのでした!
【適 用】
●ヤコブの息子たち、いわば「族長たち」と呼ばれている者たちの大部分が霊的盲目者であったという表現は、もしかすると、今回が初めて聞いた事であったかも知れません。彼らは、神がヨセフをどう用いるのかを全く見極める事ができず、妬みに駆られてエジプトの証人へ売り飛ばし、ヨセフをはじめ、その父親であるヤコブを悲しみのどん底へ追いやりました。いかがでしょうか、あなたは、霊的に物事が見えていますか?妬みや憎しみによって、人間的な方法で物事に対処してはいませんか?あなたの考えている事、計画している事、それらは神の栄光をもたらすものですか?
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●今回のメッセージの後半は、旧新約聖書で、同じ出来事が異なった表現をもって記述されている箇所で、まるで矛盾しているように思われる時、あなたはどういう態度を取るべきなのかという事を学びました!ステパノの発言やルカの記述のどちらかに誤りがあると断定し、聖書そのものが不完全な書物だと非難しますか?あなたは、「聖書はすべて神の霊感によるもので」あるがゆえに誤りがなく、それゆえ「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」な書物です、と心の底から認める事ができますか?あなたは聖書の無謬性、無誤性に全幅の信頼を置き、聖書の御言葉をあなたの人生の絶対的な基準にしていますか?あなたの人生の要所要所で、聖書の真理があなた導いているという実感はありますか?
●ヨセフの生涯は、多くの点で、イエス様と共通していた事をお伝えしました!あなたがヨセフやイエス様のように妬みや偽証によって窮地に追いやられた時、あなたはどう対応しますか?神の前にへりくだって御旨を追い求めますか?それとも、人間的な方法で動きますか?ヨセフは自分が遭遇した試練や苦しみを振り返りで、兄たちに対して次のように語りました。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」、と!(創50:20)一方、イエス様は文字通り十字架の死を通して、信じる全ての者に罪と死からの救いを与えられ、また復活された事によって、信じる者へ永遠の命をお与えになられました!いかがでしょうか、ステパノやイエス様の試練や苦難を通して、あなたは何を学びましたか?あなたは、あなたが遭った試練や苦しみが、他の人々を助け、生かす事につながると捉えていますか? それでは、祈りの時をもちましょう。
【結 論】
■「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです」(創世記50:20)。
■「3:16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。3:17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」(2テモテ3:16)。
[引用&参考文献]
・ジョン・F・マッカーサー、『マッカーサー新約注解書/使徒の働き18-24』(ムーディー出版、2014) (John MacArthur, The MacArthur New Testament Commentary, Luke 18-24, The Moody Bible Institute of Chicago, 2014, pp. 204-207.)
・F.F.ブルース、『新聖書注解 新約2』、いのちのことば社出版部、1934、p.89、10刷。
・斎藤篤美、『使徒行伝』、聖書図書刊行会、1980、pp.163-164、4刷。