「使徒の働き」講解説教①/リメイクメッセージ原稿/2024.07.28

『アンティオキア教会、力あるキリスト教会の特徴』(その1)『霊的指導者たち、力ある教会の鍵!』―信じて救われた人々の教会、霊的指導者の下に育てられた教会、

【前 置】

●先週まで、15回にわたって、『キリストの再臨のしるし』シリーズのメッセージを取り次ぎ、残すはあと二回に迫った時点で、明後日から私が夏季休暇を取る事になりました。そこでこの時点で、一旦、ルカの福音書の講解説教から離れて、過去に取り次いだ使徒の働き13章のメッセージのリメイク版をお届けする事にします。その章全体は下記の通り、大きく三つに分ける事ができます。

Ⅰ.アンティオキア教会、力ある教会の特徴』(使徒13:1-13)/2回シリーズ

Ⅱ.パウロはキリストの福音を宣べ伝える(使徒13:14-41)/3回シリーズ

Ⅲ.明暗を分ける福音(使徒13:42-52)/2回シリーズ

●この7回シリーズを全て取り次ぐのかどうか、様子を見ながら判断して行きたいと考えています。まずは、アンティオキア教会に焦点を当てたメッセージを、今回と次回の二回にわたって取り次ぐ事にします。アンティオキアとは、当時、イスラエルの領土から北に位置するシリア(旧約ではアラム)領内の代表都市です。アンティオキアは、ローマ帝国時代には、ローマ、アレクサンドリアに次ぐ、第三の都市として有名でした。現在では、トルコのハタイ県の県庁所在地で、アンタキヤと呼ばれています。イスラエルの殲滅を掲げるイランが、シリアを通して、イスラエルとの軍事的な緊張関係を生み出しているというのが、現在の状況です。

●さて、聖書の時代に戻りましょう。アンティオキア教会とは、エルサレムの初代キリスト教会が誕生してから、7年後に初めて誕生した異邦人のキリスト教会です!異邦人という異教の世界で、アンティオキア教会は、最初のキリスト教の重要拠点となった教会です!(Wow!)アンティオキア教会が、異教の世界の中にあって、なぜキリスト教の重要な拠点となり得たのか、その五つの重要な理由を、まずは序論でお伝えする事から始めて行きます。そして本論では、力あるアンティオキア教会の特徴を、二回にわたって学ぶ事にいたします。

●今回のメッセージの主題は『「霊的指導者たち、力ある教会の鍵!』で、副題は「信じて救われた人々の教会、霊的指導者の下に育てられた教会、“キリスト者”と呼ばれた教会、愛を実践した教会、聖霊に従った教会」です。教会に関する聖書の真理に、改めて目を留めて行く事にします。それでは、全体並びに今回のアウトラインを通して、メッセージの流れを把握するところから始めましょう。

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【全体のアウトライン】

序論:アンティオキア教会が、キリスト教の重要拠点となった五つの理由!/今回

本論:アンティオキア教会、力ある教会の特徴!/今回&次回

[1]力あるキリスト教会の特徴(使徒13:1-13)/今回&次回

[2]キリストの福音を宣べ伝える(使徒13:14-41)

[3]キリストの福音は明暗を分ける(使徒13:42-52)

【今回のアウトライン】

序論:アンティオキア教会が、キリスト教の重要拠点となった五つの理由!

1)信じて救われた人々の教会()

2)霊的指導者の下に育てられた教会

3)“キリスト者”と呼ばれた教会

4)愛を実践した教会

5)聖霊に従った教会

本論:アンティオキア教会、力ある教会の特徴!/今回&次回

[1]力あるキリスト教会の特徴(12:1-13)/今回&次回

1)霊的指導者たちがいる教会(13:1)/今回

ア)預言者や教師からなる指導者たち(13:1b)

イ)麗しい組み合わせの指導者たち(13:1a)

2)霊的働きをする教会(13:2a、b)/今回

ア)全ての職務を神への「礼拝」とする指導者たち(13:2a)

イ)「断食」して集中した祈りをささげる指導者たち(13:2b)

【序 論】

●一番目ですが、使徒11:21では、アンティオキアの地で、「主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った」と伝えています。というのも、その前の二節で、次のような事がなされていたからです。「ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々・・・の中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた」、と!(11:19、20)その結果、救われる人々が大勢起こされたのでした!ここで注目したい言葉は、「信じて主に立ち返った」という表現です。エルサレムの初代教会の始まりも、同じように、信じ救われた人々からのスタートでした!(Right!)エルサレムの初代教会の特質の一番目が、救われた人々の教会でした!何を根拠にそう言えるかと言いますと、「彼らはいつも、使徒たちの教えを守(って)」(2:42a)いたからです!本当に信じて救われた者は、必ず聖書の教えに留まります!信じた者には聖霊なる神が内に宿っておられ、その人が聖書の教えを固く守るよう助けるからです!初代異邦人教会となったアンティオキア教会もまさにそうでした!明確に救われた人々でスタートした教会であったのです!

―2―

●二番目に、アンティオキア教会は、バルナバとサウロという力ある霊的指導者の下で御言葉を教えられ、牧会され、その結果、劇的に成長しました!(11:26)。サウロが加わる前にはバルナバが教え導いており、バルナバが加わる前には、迫害で散らされたクリスチャンがアンティオキアで宣教していました!そういう意味で、アンティオキア教会は、設立の当初から御言葉で教えられていた教会でした!御言葉で教えられる、また御言葉を教える指導者の模範に倣って教会が形成されて行きました!今回のメッセージは、『霊的指導者たち、力ある教会の鍵!』という主題を付けましたが、力ある教会は、何と言っても霊的指導者がその鍵を握っています!その詳細を、メッセージの本論でお伝えする事にします。

●アンティオキア教会の三番目の特徴として、その地で、イエス・キリストに信じ従う人々がキリスト者」すなわち「クリスチャンと呼ばれたという事です!(11:26b)それだけ、異教の地で、クリスチャンの数が増え、社会に影響を与えていたのだという事が理解できます!当初、その呼び名は軽蔑を込めて使われた表現でした。“キリスト御一行様”というような皮肉を込めた表現でしたが、アンティオキアのクリスチャンたちは、それを誇りとしました!その呼び名は、やがて、キリストに従う者の名誉のしるしとしました!それから今日まで長い歴史が刻まれる中、“キリスト者”すなわちクリスチャンという呼び名は、むしろ尊敬された呼び名、誠実な人という意味をもつようになって、用いられるようになりました!今日の日本でも、「クリスチャン」という響きは、一般に、尊敬が込められたものとなっています!(Amen!)

●四番目に、異邦人のアンティオキア教会は、愛の教会でした!ユダヤ人中心のエルサレム初代教会が「大ききん」に見舞われ(11:28)、苦しみに直面していました。これまでユダヤ人と異邦人との間には、高く分厚い「隔ての壁」がそびえ立っていましたが(エペ2:14)、その壁が崩されて後、直ぐに、アンティオキア教会が救援物資と献金とを送り届けました!(11:27-30)。異邦人のアンティオキア教会が、ユダヤ人のエルサレム母教会に対して、キリストにある豊かな愛を表したのです!アンティオキア教会は、頭だけの御言葉の知識ではなく、愛を実践する教会として成長していました!

●最後の五番目に、アンティオキア教会を力強い教会へと導いた要因の中で、最も重要なものは、聖霊に従う教会であったという点です!指導者であるバルナバ(11:24、13:4)やサウロ(13:9、13:4)も、また教会員(13:2)も聖霊に満たされていました!彼らは完全に聖霊に頼り、聖霊は彼らの全ての働きに力を与えられました!アンティオキア教会は、聖霊に満たされた教会でした!

●ところで、聖霊に満たされた教会のしるしって何でしょう?簡単に説明しますと、教会員が神の御心に従って歩んでいるという事です!神の御心とは何に記されているでしょうか?聖書の御言葉にです!という事は、聖霊に満たされた教会というのは、神の御言葉に深く沿って従っている教会だと言えます!エペソ5章に記されている「御霊に満たされなさい」とコロサイ3章に記された「キリストのことばが・・・豊かに住むようにしなさい」という命令は、双方とも全く同じ結果をもたらすという事からも理解することができます!御霊に満たされる事と御言葉に満たされる事は、全く同じ事を言っているのです!

―3―

【本 論】

[1]力あるキリスト教会の特徴(13:1-13)

1)霊的指導者たちのいる教会(13:1)

ア)預言者や教師からなる指導者たち(13:1b)

●さて、ここから本論に入ります。『力ある教会の特徴』の第一番目は、何と言いましても、敬虔な霊的指導者たちのいる教会です!アンティオキア教会もまさにその通りの教会でした!神は、常に、霊的指導者を重視しています!使徒6章の「ギリシヤ語を使うユダヤ人たち」と「ヘブル語を使うユダヤ人たち」の間で起こった食事の配給の問題を解決するに当ってもそうでした。それに携わるリーダーを選ぶに当っても、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」というのがその条件でした!食事の配給のリーダーを選ぶにしても、それを選ぶ条件は物凄く高いものでした!牧会書簡の1テモテ3章においては、牧師を選ぶに当って、何と16の条件が定められています!(参/テト1:5-9)ホセア4:9に記されていますように、「民も祭司も同じようになる」という霊的原則があります!指導者である「祭司」が神の御心から外れますと、「民」も同様に神の御心から外れてしまいます!それゆえ、キリスト教会においても、神は、常に霊的指導者に重きを置いておられるのです!『力ある教会の特徴』の第一番目は、何と言っても霊的指導者です!

―「預言者」について―

●アンティオキアに誕生した世界初の異邦人キリスト教会には、1節によりますと、5名の霊的指導者が備えられていました。彼らが、アンティオキア教会の働きの中心人物たちです!1節後半の言葉に注目しましょう。それは、「預言者や教師」という言葉で、新約聖書における二つの重要な言葉です。まずは、「預言者」という言葉を解説しましょう。「預言者」は、使徒時代の教会おいて重要な役割を担っていました!1コリント12:28によりますと、預言者は使徒の次に来る重要な職務である事が分かります。エペソ2:20や4:11では、教会は、「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられ(る)」ものだと記されています。更に、同じくエペソ3:5には、キリストの「奥義は・・・聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています」と記されています!

●使徒11:28に記されていますが、「預言者」は「大ききん」が起こる事を預言したり、また使徒21:10-11では、エルサレムに向かうパウロに対して、迫害が待ち受けている事を預言しています。ですから、「預言者」が聖霊を通して受ける啓示というものは実際的なものでした。しかし一方、使徒が聖霊を通して受ける啓示というものは、実際的なものというよりは、むしろ教えや教理に相当するもので、後に新約聖書の御言葉として残されて行くものでした!(I see!)「預言者」は、使徒の下でその職務を遂行していました。「預言者」たちも、使徒たちのように神の言葉を宣べ伝えていましたし、地域教会の信徒を教えて整えるという点においては、共通の責任を負っていました。「預言者」としての職務は、使徒たちの働も含めて、新約聖書が完成するに従ってなくなり、それは、長老とか監督(テモ3:1/テト1:5-9)と呼ばれている牧師、教師、伝道者の働きに取って代わるようになりました!(ペソ4:11)

―4―

●新約聖書全般を通して記されている事は、預言は二つの意味で用いられています。一つ目は「語られる言葉」、二つ目は「書かれた言葉」です。もう少し説明を加えますと、一つ目の「語られる言葉」とは、預言の賜物を持っている者が神から直接啓示を受けて語る言葉です。それは先程述べた「預言者」の職務と同じで、新約聖書が完成するに従って直接神から受ける預言の賜物はなくなりました。二つ目の「書かれた言葉」とは、聖書に記された預言の御言葉を指しています。2ペテロ2:20-21と黙示録1:3の双方の聖書箇所は、預言が聖書に書かれた御言葉である事を明確に示しています!ですので、新約聖書時代も現代も同じように言える事は、講壇から語られる説教やメッセージというものは、預言の働きだと言えます!その預言の働きを、現代では、牧師や教師や伝道者が行っています!使徒も預言者も聖書が完成するに従っていなくなりましたので、現代にも使徒や預言者がいるという事はありません!このような点の聖書理解が進む事によって、現代の教会から、その面における混乱はなくなって来ますでしょうし、その誤った聖書理解によってもたらされる犠牲者も少なくされるでしょう!

―「教師」について―

●預言者に続いて、「教師」についても解説しましょう。「教師」の働きは、聖書の真理について明瞭な理解を与えるというところにあります。その特徴は、御言葉の真理を宣言するというのではなくて、教え説く、教え授けるというところにあります。アンティオキア教会には、そのような教師の賜物を持っている人がいて、聖書の真理を紐解いて教えました!今日の教会においても、御言葉を正しく系統だって教える教師を必要としています!とても重要な働きです!使徒15:35には、「パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のみことばを教え、福音を宣べ伝えた」と記されています。「パウロとバルナバ」という二人の霊的指導者をはじめ、他の三名も、教える事もまた宣べ伝える事もできる指導者たちでした!という事は、彼らは御言葉を教える教師や御言葉を宣べ伝える伝道者や牧師の賜物を兼ね備えていたという事が理解できます!

イ)麗しい組み合わせの指導者たち(13:1a)

●そして、五名の霊的指導者たちの名前が記されていますので、一人ひとり取り上げる事にしましょう。一番目に、「バルナバ」という名前が記されています。使徒4:36に記されていますように、彼が「キプロス生まれのレビ人」であったという事が分かります。「キプロス」とは、地中海に浮かぶ島国です。今日、国際的な首脳会議が、このキプロス島で開かれるというニュースを耳にする事がありますが、この国の出身が「バルナバ」でした。彼の名前は、元々「ヨセフ」でしたが、「使徒たちによってバルナバと呼ばれてい」ました。その名前の意味は、「慰めの子」です!使徒たちによって敢えて「バルナバ」と呼ばれていたのですから、彼は愛に富み、慰めに富み、励ましに富み、優しさに富んでいた人物であったという事が分かります!

●「バルナバ」の働きは、初代エルサレム教会にとっては大変貴重なものでした!ダマスコの途上で回心した元迫害者サウロに対して、エルサレム教会の信徒の疑念はぬぐえませんでした。ステパノへ殉教の死をもたらし、クリスチャンに対しては神を汚す言葉を吐かせては、次々に牢獄へ送っては処刑しました。その人物が、まさかキリストへ回心する訳がないと誰もが思っていました。しかし、「バルナバ」はそのような疑念に捉われずにサウロに接触し、その回心が本物だと確かめると、エルサレム教会の人々を納得させて、クリスチャンの交わりに入れる大切なパイプ役を果たしたのです!(使9:27)。       ―5―

●次に何が起こったかというと、「異教の地アンティオキアで異邦人たちがキリストを信じたらしいよ」、という報告が伝わって来た時、エルサレム教会の使徒たちは、真っ先に「バルナバ」へ白羽の矢を立てて確認するよう派遣しました!(11:22)「バルナバ」が、いかに、初代教会からいかに高い尊敬を得ていたかを物語っています!それから、「バルナバ」は、迫害によってエルサレムを脱出したサウロを、力を尽くして探し出し、アンティオキア教会の働きに招き入れました!(11:25-26)そして更に、「バルナバ」はサウロと共に、「大ききん」(11:28)で窮地に陥っていたエルサレムの母教会へ、異邦人教会からの救援物資や献金を届けた神の器でした!(11:30)アンティオキア教会の霊的指導者の筆頭に、この「慰めの子」バルナバが挙げられているという事は、初代異邦人教会の形成において、そのような人物がいかに必要とされていたのか、という事を物語っていました!

●二番目に記されている人物名が、「ニゲルと呼ばれるシメオン」です。ニゲルという言葉は「黒い」という意味がありますので、「シメオン」は肌が黒い人か、あるいはアフリカ出身の人であったと考えられます。三番目の人物が、「クレネ人ルキオ」と記されています。イエス様の十字架を途中から背負わされたクレネ人シモンではは違います。クレネというのはアフリカの北端にある町で、クレナイカ地方の首都として栄えた町でした。現在のリビアがその位置にあります。四番目が、「領主ヘロデの乳兄弟マナエン」です。「乳兄弟」とは、血のつながりはありませんが、同じ母親の母乳で育った事を示しています。国主ヘロデというのは、「ヘロデ・アンテパス」を指しており、福音書に登場する人物です。ヘロデ大王の第4番目の妻の息子です。このマナエンという人物は、ヘロデ大王の王家で育てられた人でした。何と、そういう人物がアンティオキア教会の霊的指導者の一人でした!(Wow!)神は、王宮の中にも救いの御業を導いておられたという事を物語っています!

●そして、五番目の人物が「サウロ」です。使徒パウロを指しています。彼の父親がパリサイ人で、文字通り「パリサイ人の子」(使徒23:6)でした。13歳でタルソという外国の地からエルサレムへ出向き、最も尊敬されていた律法の教師ガマリエルの門下で学びました(使徒22:3)。ユダヤ人の身分としては申し分のないものでした。その一方、ローマの市民権を持ち、ギリシャ人としての教育も受け、ギリシャ人の身分としても申し分のないものでした。彼の誤った熱心は、ステパノを殉教死に追い込み、多くのクリスチャンを迫害して処刑に至りました。しかし、あわれみ深い神は彼を劇的な回心へと彼を導き、その生涯は文字通り一変しました!彼は使徒となり、宣教師となり、神学者となり、伝道者となり、牧師となり、指導者となり、思想家となり、真理のために戦う者となり、そして魂をこよなく愛する者となりました!主イエス様ご自身を除いて、彼ほど敬虔に生きた者はいないといっても過言ではない程の人物となりました!(Wow!)その「サウロ」が、バルナバと共に、初代異邦人キリスト教会の霊的指導者となったのです!そして、彼の疲れを知らない力強い宣教の業を通して、異邦人の世界へ福音が広げられて行きました!

―五名の霊的指導者たちのまとめ―

●聖霊なる神が、これら五名の器たちを初代異邦人キリスト教会へ備えられたのです!五名を見ただけで、様々なタイプからなる指導者層である事が分かります!二人のユダヤ人と三名の異邦人で構成され、一人が黒人、一人がごく普通な人、そして一人がとても裕福な人物でした。

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大変、麗しい組み合わせです!アンティオキア教会の出発に当り、神は、このような麗しい組み合わせの指導者たちを備えて、良いスタートを切らせたのです!これら五名の霊的指導者たちが羊飼いとなって、初代異邦人教会を牧会して力ある群れへと育てて行ったのです!そして、アンティオキア教会は、世界宣教に対して最も影響力ある群れへと成長して行ったのです!力強い教会の鍵の第一は、まさにその指導者たちにあるのです!(Wow! & Wow!)

2)霊的働きをする教会(13:2a、b)

ア)全ての職務を神への「礼拝」とする指導者たち(13:2a)

●霊的指導者たちがいる教会の最後のポイントです。霊的な指導者たちの霊的な働きがどのようなものであったのか、その点を学ぶ必要があります。2節前半の御言葉に注目しましょう。「彼らが主を礼拝し、断食していると」と記されています。「礼拝し」と訳されている言葉は、元々、「公の職務を果たす」という意味があります。(I see)ですから、アンティオキア教会の指導者たちは、神から自分たちへ託された公の職務を忠実に果たしていた人物たちである事が分かります!それは、丁度、使徒パウロのテモテへの勧めにも表れています。「あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい」(2テモテ4:5)、と!

●しかし、この「礼拝し」という言葉は、公の職務を果たすという意味だけに留まりません!もっと深い意味があります!それが、出エジプト28:41(70人訳)で、祭司が幕屋で神に仕えている姿に表されています。この事をアンティオキア教会の指導者たちに適用しますと、霊的指導者の全ての役割は、神への礼拝として見なされていたという事です!この真理を、ヘブル書が次のように、物の見事に表しています。

13:15 それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。13:16 善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです(ヘブ13:15-16)。

祈る事も、群れを見張る事も、聖書を学ぶ事も、神の言葉を教える事も、福音を宣べ伝える事も、全て神への「いけにえ」すなわち礼拝と理解されて、実践されていたのです!(Wow & Amen!)

●ですから、アンティオキア教会の霊的指導者たちの務めというものは、会衆ではなく、その前に主に対してなされていたのです!(Wow!)神ご自身が、全ての霊的な働きの真の的なのだという事を理解する事は、非常に大切な事です!(Amen!)しかし、もし人々へ務めをする、人々へ仕えるという事が奉仕の的となっている人々にとっては、その働きが薄っぺらなものとなってしまいます!(Right!)人が相手になると、妥協が入ります!(Right!)しかし、主を、私たちの務めや働きの的とするのであれば、それは深みのあるものとなり、妥協を排除する事ができます!(Wow & Amen!)

●この大切な真理を行動で表している二つの例を取り上げましょう。一つ目の模範は使徒パウロで、二つ目がマケドニアの諸教会です。パウロは、自分の務めや働きの的を人にしませんでした!彼の相手は、神ご自身でした!(Wow!)それゆえ、パウロは、次のように告白できたのです!私たちの模範です!

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20:19 私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。20:20 益になることは、公衆の前でも家々でも、余すところなくあなたがたに伝え、また教えてきました(使徒20:19-20)。

もし、パウロの働きの相手が人であり、人が彼の務めの的であるなら、「数々の試練の中で」忍耐して、「主に仕え(る)」事はできませんでした!(Right!)彼の働きの相手が常に主ご自身であったので、苦しみに耐える事ができました!そして、最後まで主に仕える事ができましたし、結果的に人に「益」をもたらす事ができました!これは、私たちが見習うべき大切なポイントです!(Wow! & Wow!)

●二つ目の模範であるマケドニヤの諸教会に目を留めましょう。マケドニヤがどこにあるのかと言いますと、ギリシャの北にある地域で、当時はローマ領でした。そのマケドニヤの地には、ピリピ教会、テサロニケ教会、そしてベレアの教会がありました。これらの教会は、エルサレムの母教会の貧しさの中にいる「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと・・・熱心に・・・願った」のでした!(2コリ8:4)エルサレムの母教会は貧しいのですが、マケドニヤの諸教会も貧しい中にありました。彼らは、その地で行われた数々の戦争による破壊で貧困状態が続いていました。そして、そのような時でさえも、ローマの権力によって略奪が繰り返されました。そういう状況でありながら、まだ一度も会った事のないエルサレムのユダヤ人母教会の兄姉を助けようという願いが起こされたのです!(Wow!)

●そして一方、エルサレム教会のクリスチャンたちと言えば、これもまた貧困の中に置かれていました。諸外国に散って住んでいたユダヤ人たちがペンテコステの祭りに帰国した時に聖霊が下って誕生した教会でしたので、彼らはそこでクリスチャンとなり、使徒たちの教えを聞くためにエルサレム教会に留まりました。それまで彼らを祭りの間中受け入れていた親戚の者たちは、彼らがクリスチャンとなった事で宿泊を断るようになりました。彼らを受け入れるクリスチャンの側も迫害によって職場を追い出され、貧しい人が貧しい人を助けなければならないという状況でした。それにプラス、世界規模の「大ききん」がエルサレムを襲いましたので(11:28)、その貧しさは極限に達していました。

●そこで私たちが学ぶべき点は、マケドニヤの貧しいクリスチャンたちが、エルサレムの貧しいクリスチャンたちを支えたいと思った時の彼らの信仰姿勢です!どういう心構えで、エルサレム教会に仕えようとしたのでしょうか?第2コリント書は、その点を次のように伝えています。アンティオキア教会の霊的指導者と同じように、麗しい信仰者の姿を表しています。

8:1 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。8:2 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。8:3 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、8:4 聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。8:5 そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました(2コリ8:1-5)。

このように、マケドニヤのクリスチャンの良い働きの的は、エルサレムのクリスチャンではありませんでした!(Wow!)主ご自身でした!(続く)

―8―

「神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ(る)」という事が何よりも先行しました!その後に、使徒たちへすなわち人々へ、彼ら自身を「ゆだねてくれ」ました。マケドニヤのクリスチャンは、自分たちの奉仕の相手が、自分たちの働きの的が、人ではなく主であるという真理をよくわきまえていた信仰者たちでした!(Wow! & Wow!)

イ)「断食」して集中した祈りをささげる指導者たち(13:2b)

●最後に、「礼拝」という言葉の後に「断食」という言葉が続いています。聖書はしばしば、「断食」を、油断せずにささげられる熱意溢れる祈りと結び付けて伝えています!(参/ネヘ1:4、詩35:13、ダニ9:3、マタ17:21、ルカ2:37、5:33、使14:23)信仰者が霊的な事に深く関わる事によって食欲が湧かなかったり、あるいは食物を脇へ置いて、集中した執り成しの祈りに専心する事は尊い事です!断食について殆ど知らないという信仰者は、もしかすると、そのような集中した執り成しの祈りについて知らないのかも知れません。

●旧約聖書の律法に定められた「贖罪の日」以外に、旧新約聖書で、断食を命じられている箇所はどこにもありません(レビ23:26-31/民29:7)。旧約の「贖罪の日」の断食に関する律法は、イエス・キリストの身代わりの十字架の贖罪がなされて以降、廃棄されましたので、断食しなければならないという命令はなくなりました。しかし、イエス様は、ご自分が十字架に架かられた後に、弟子たちが断食するようになると語られました(マタ6:17/ルカ5:33-35)。人前で自分がいかに霊的な者なのかを示すためになされていたパリサイ人たちの偽善的な断食とは全く対称的に、真の信仰者の断食というものは、神の目だけに見られるべきものなのです!(マタ6:16-18)

●次回は、この続きで、3番目の霊的使命に従う教会(13:2c-5)、4番目の霊的妨害に直面する教会(13:6-8、13)、そして5番目の霊的勝利を得る教会(13:9-12)という内容でメッセージを取り次ぐ事にします。

【まとめ】 それでは、メッセージのまとめをしましょう。

●『力ある教会の特徴』の一回目は、霊的指導者たちがいる教会がその第一の鍵を握っているというメッセージを取り次ぎました。その霊的指導者たちは、聖書の御言葉で群れを養い育てました!また、麗しい組み合わせの指導者たちでした!そして、自分たちの職務を神への礼拝とする指導者たちでした!

【適 用】 それでは、メッセージの適用をしましょう。

●今回のメッセージを聞いて、神はあなたに何を語り掛けて下さいましたか?あなたの奉仕は、誰のためにしていますか?人のためですか?それとも、主のためですか?自分の奉仕や働きに関して、人からのお礼や感謝の言葉を期待していますか?それとも、主に対して捧げた「いけにえ」なので、人があなたの奉仕に気づかなくても平気ですか?あなたの奉仕を主に見ていただいているだけで満足できますか?そういう点で、自分の心を吟味する必要はありませんか?

―9―

●あなたは、あなたの奉仕が人のためであるなら、薄っぺらで浅いものとして終わってしまう事に気づいていますか?逆に、あなたの奉仕が神の前のものであるなら、神への「いけにえ」であるなら、豊かな実りがあり、神の栄光が現れるものである事に気づいていますか? それでは、祈りましょう。

【締めの御言葉】

3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。3:24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです(コロサイ3:23-24)。